企業理念を生んだ背景その1

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株式会社玉海力を知っていただくには、会社を作った私、河邉幸夫がどのような人間なのかを知っていただかなければならないと考えています。
私は、ちゃんこ料理店『玉海力』をオープンする前の16年間、力士として生きてきました。その間、相撲以外のことが自分に降りかかってくるとは夢にも思っ ておらず、冗談抜きで「死ぬまで力士を続けるものだ」と思っていたのです。そして力士だった10代・20代の時期に、河邉幸夫という人間の土台が作られた ような気がします。

中学2年で片男波部屋に入門。
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3000グラム台の普通の男子として生まれた私が急激に大きくなっていったのは、2歳からだといいま す。小学校2年でランドセルを免除され、3年生の時には大人用のスラックスが私服となるほどの成長ぶり。その並外れた体格によって「相撲界で生きる道」が 開かれていった私は、中学2年の1学期終了と同時に片男波部屋に入門。学校も地元の恵比寿から両国中学に転校し、相撲道一筋に生きることとなりました。

それまで有り余る体力と負けん気で喧嘩に明け暮れていた私は、大人の中に入っても負けない自信がありました。しかし入門した瞬間、真剣勝負の世界に 圧倒されます。なにせ後ろから飛びかかっても勝てないであろう先輩力士たちに囲まれてしまった。「真面目にやるしかない」。強い者には従うのが実力の世界 です。その日から私は、ただひたすら強くなることだけを考えるようになったのです。

土俵というフェアな舞台で上を目指す
相撲は非常にフェアな世界です。どんな部屋に所属していようとどんな力士であろうと必ず土俵には立たせてくれ、勝ち越していけば幕内の関脇までは誰でも平等に番付が上がっていきます。そこには部屋の力関係など必要なく、プロモーターの存在なども必要ありません。

そんな中で私に初土俵の機会が訪れたのは、入門から1年半後の1982年3月でした。「玉桜」という四股名で土俵に立った私は、元横綱・北の湖の記録に迫るイキオイで、中卒力士としてはトントン拍子の出世をしていきました。

 

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初土俵から2年足らずで幕下昇進を果たした私は、17歳の頃になると自分でも身体が完全に変っているのを感じることができましたし、毎日朝起きるたびに強 くなっている実感がありました。また“序二段”“三段目”といった番付内でたびたび優勝を果たすなどで、同世代が持てない多額のお小遣いも自由に使えるよ うになりました。こうなると慢心です。稽古の後の“クラブ活動”も忙しくなり、睡眠時間や身体のケアがおろそかになり怪我をするようになってしまったので す。

 

こう見えても研究家肌。創造・工夫する習慣
上下関係が厳しい相撲界は、先輩力士のお世話に費やす時間が半端ではありません。食事作り、洗濯、マッサージ、布団引き、お使い…。私はこれまでの部屋の慣例通りにやっていたのではとても自分のための時間が作れないと考え、効率重視でやり方を変える工夫を取り入れました。
また、ウェイトトレーニングの必要性に着目した私は、部屋にベンチプレスなどを持ち込み筋肉強化を行いました。マウスピースの導入もそうです。相撲界で前例のなかった私の行動は話題となり、他の部屋の先輩たちも「マシン貸してくれよ」と連日連夜訪れるほどでした。
考えてみれば、私はこの頃から自分なりのやり方を模索するのが好きだった。実は会社の研修用資料は私が手作りしていますし、会社HPも自分で制作し ました。何かをしなければ、何かを変えなければという時、本を読んだり教室に通ったり、講習会に参加したりして現状を打開する。この研究スタイルは力士時 代から自分自身で育んでてきたものなのかもしれません。

 

jyungyoboss2親方の市で心を入れ替え再起を図る
さて、15歳でデビューした私は17歳で幕下昇進を果たしますが、取り組み中の怪我で首の骨の剥離骨折をしてしまいます。その身体に鞭打ちながら稽古、取り組みを続けますが、バカなことに覚えてしまった夜遊びからも抜け出せず、勝敗的にも番付的にも一進一退を繰り返します。相撲への情熱が薄れていたのです。

惰性的な日々に転機が訪れたのは20歳の時でした。糖尿病の検査入院をしていた親方が、退院の日に急死したのです。その3日前まで「稽古せぇ」と気にかけ てくれていた親方のありえない死。中学2年の子供の私を迎えてくださり、学校に通わせてくれご飯を食べさせてくれた親方がもういない。厳しい稽古で力士と して育ててくれた親方にもう恩返しができない。ここにきて腑甲斐無い姿しか見せていなかった私は、その直後の2場所は気が抜けたように負け越してしまいま したが、そこからは心を入れ替えもう一度入門した時の熱い心を取り戻し、一心不乱に稽古に励み再起を図ることを決意したのです。「玉海力」へと四股名を変えての新しい土俵人生がはじまりました。

最高位は幕内前頭八枚目。相撲界引退の決意 
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私にとっての神。親方の現役時代の四股名「玉乃海」の力をもらうという意味を込め「玉海力」に改名する許可を いただいた私は、それからはまるで新弟子時代に戻ったように稽古に励みました。明確な目標があると人は変われるものです。勝敗の波はあったもの23歳で十 両、24歳で念願の幕内昇進を果たし、幕内前頭八枚目にまで上がりました(関取となれば大銀杏を結って化粧廻しを締め土俵入りできます)。親方の死がきっかけとなって幕内力士になれたのは皮肉な結果ですが、この数年間は非常に充実した時間でした。なぜなら、挫折と頂上の両方を経験すると、人 は“頑張れば報われる”ことを知り、歯を食いしばれるようになるからです。もちろん現役時代にこんな冷静なことを考えていたわけではありませんが、私はこ の私自身の経験を、経営者となった今実感し、自らの社員教育にも活かしています。

例えば実力以上の仕事を社員に任せます。はじめは失敗を重ねますが、努力できる人は自らの頑張りで成功体験へと繋げていけます。一度登り詰めた景色を見た人間は、次ぎの壁が現れてもまたそれを乗り越えようと頑張り、更にはその壁を越えていくのです。

 

「死ぬまで力士をやっていたい」。
しかし右足首の靱帯断列、右指の骨折などの怪我が重なり、身体が思うように動かなくなっていた私は、同時期に養わなければならない家族ができたことから、ついに引退(廃業)を決意しました。とはいえ中学から相撲の世界に入り他には何も知らない私は、これからどんな道に進めばよいのでしょうか。身体の治療で 貯金も使い果たしてしまった相撲しか知らない29歳の大きな男。まるで、まったく知らない広大な土地にポツンと独り置いていかれたような気分でした。

『参考/相撲番付』
[幕内]横綱、大関、関脇、小結、前頭筆頭、前頭二枚目、前頭四枚目〜十六枚目
[十両]筆頭、二枚目〜十四枚目
[幕下]一枚目〜六十枚目
[三段目]一枚目〜百枚目
[序二段]一枚目〜百二十五枚目
[序の口]一枚目〜三十四枚目
※関取とは大相撲の番付で十両以上の力士のこと。本場所中15日間の取り組みがある。化粧廻しを身につけて土俵入りを行うことができ、本土俵で大銀杏を結うことができる。日頃の生活でも「〜〜関」と呼ばれ、幕下以下の付け人が身の回りの世話をする。kigyorinen2
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